寺報

「ルビンの壺」2017年冬号より

 先だって、久しぶりに「ルビンの壺」と呼ばれる絵を見ました。有名な絵ですので、みなさん一度は見たことがあるかと思います。向かい合っている2人の人の横顔のように見えるのに、少し見方を変えると、1つの壺のように見えるだまし絵です。同じ1枚の絵画を見ているのに異なる風景が見える。なんだか不思議な気分になる作品です。私にとって思い出深い作品なのですが、せっかくの機会ですので、この作品についてみなさんに伺ってみたいことがあります。

 この作品、壺と人、どのように見るのが正しいと思いますか?仏教の言葉に「一水四見」というものがあります。例え話として上がるのは、人・魚・天人・餓鬼としてのお話です。よく澄んだ水池があり、人がそれを見れば「清浄な飲み水」。魚がそれを見れば「住みよい家」。天人がそれを見れば「ガラスのように輝く宝石」。餓鬼が見れば「汚れた毒水」。字の通り、1つの水にも4つの見方があることを表しています。同じものであっても、立場が違えば、視点が違えば、心の持ちようが違えば、全く異なるものに見えてしまうという意味を持つ言葉です。

 さて、冒頭の疑問に戻りましょう。壺にも人にも見える1枚の絵画は、どのように鑑賞するのが正しいのでしょうか?答えは「どちらも描かれた作品として見る」です。この疑問、実は私自身が恩師から投げかけられたものでした。当時、何事も自分の見たものが正しいと思いがちだった私は、授業の中でこの疑問を受け、「壺に見える」と言い張って「人に見える」と言い張る同級生と激しく議論しました。今振り返ってみれば笑い話のような出来事ですが、この時の肩透かしのような答えを契機に、物事の捉え方について深く考えるようになりました。

 そして時は過ぎ、お坊さんとしての修行中に出会ったのが「一水四見」という言葉です。物事を見るとき、視点や立場、心の持ちようによって目の前にある物事は常に変化してしまう。この言葉を知ったとき、物事をただ、ありのまま、そのまま受け取るということの難しさを厳しく諭されたような気がしました。

 そしてある日、修証義というお経の中にこんな一節を見つけました。「即心是仏」という一節です。「仏はどこにあるのだろう。仏の心はどこにあるのだろう」と、問うたとき、「仏の心は私たちの心と同じもので、そのまま、私たちの心が仏の心なのですよ」と教え諭す意味を持ちます。煩悩にまみれてしまうのも、家族を愛するのも、誰かを嫌いになってしまうのも、仏のように悟りを開くのも、すべて同じ心がはたらくものです。迷いの多い心だけれども、物事をありのまま純粋に捉え、自己をそのままに受け止めることができれば、それは仏の心として落ち着くということなのでしょう。

 ですが、そうは言っても、私たちの心は移り気が激しく、なかなか「私たちの心と仏の心が同じものだ」と言われてもいまいち腑に落ちません。どうすればこの心を持つことができるのでしょうか。

 同じお経の中に「一日の行事是れ諸仏の種子なり、諸仏の行事なり」という一節があります。仏の道を歩む一日を過ごせば、それはそのまま仏の種となり、仏の行いそのものである。仏の生き方をすれば、そのときその瞬間、人は仏になっているという意味です。仏のようにありたいという心をおこし、行動すれば、そのときの私たちの心もまたきっと、仏の心となるのではないでしょうか。また、ありのまま物事を捉えようとするならば、自分の考えに固執するのではなく、仏の心をおこして行いを保つべきなのでしょう。

 世の中にはだまし絵のように、1つの物事であっても複数の見方ができるものが数え切れないほど多くあります。そして、その見え方の差異は、授業の中での私が「壺と人の両方が描かれた絵だという答え」に気付くまで論争をしたように、くだらない争いのきっかけになることさえあります。価値観の多様化する昨今、仏の心をおこし、あるがまま物事を見つめる姿勢が今一度問い直されているような気がします。

 もし、私のように、見え方や立場や心の持ちようで誰かと衝突しそうになったとき、仏の心で物事を見つめ直していただければと思います。

関連記事

コメント

この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP